
講演会の様子。
周南市の「小さな親切」運動新南陽支部(三浦克己支部長)の総会があり、その後の記念講演会に参加しました。
講師は、元 周南市教育委員長で、故 津田恒実投手を擁して甲子園に出場した時の南陽工業高校野球部監督、坂本昌穂さん(73歳)。
演題は「『やさしき勇者』津田君との出会いと別れ」です。
坂本先生は、昭和53年、県立南陽工業高校野球部監督として、春・夏の甲子園に連続出場。
平成5年、県立光高校野球部監督として、夏の甲子園に2年連続出場。
平成17年、県立南陽工業高校校長を最後に定年退職され、平成19年から23年まで市の教育長に就任。
平成20年、日本高校野球連盟より「高校野球育成功労賞」を受賞、という経歴をお持ちです。
高校野球の指導者として、「炎のストッパー」故 津田恒実投手を育てられた思い出や、彼を通して仲間を思いやることの大切さ等のお話を伺いました。
心に残った言葉を少し紹介させていただきます。
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【「本物の優しさ」は強さからくる】
・寝たきりの父親に対する奥様の介護の話。
・養護学校の高等部の教師としての経験。
○交通事故で植物状態となった女の子の母親の姿勢。
○「自分が笑えば母が喜ぶ。だから私は笑うの」と言う女の子の話。
・優しさを培うためには、感性を刺激すること
【津田選手の話】
・いざという時、いつも体調を壊す気弱な生徒。
・高校野球では珍しい「完全試合」に臨むことができた理由。
・「弱気は最大の敵」・・・自分の心をコントロール。
・9つの球団から誘いがきたが、長男だから家業の農業を手伝わなければならない。
⇒協和発酵株式会社の社会人野球へ進む。
・3年後、広島カープへの入団、新人王受賞。
・結婚3年後(28歳)、脳腫瘍と診断される。
・全力で病気と闘い、いったん軽快退院するも、再発。
・結婚してわずか4年。最期のとき・・・奥様が津田選手を膝枕し、
「広島球場で戦う恒ちゃんもカッコよかったけど、がんと闘う恒ちゃんもカッコよかったよ。」
と言われると、目から一筋の涙が流れ、それを最後に、息をしなくなった。
・津田選手ほど、努力して180度変わった人間はいない。
⇒自分の弱さを認めた上で克服しようと努力をすれば、人は変わることができる。
・津田選手ほど、相手を思いやる人はいない。
⇒ベンチ入りできない仲間を気遣い、いつも声をかけていた。
⇒勝っても絶対に、はしゃがない。負けた相手のことを考える。
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津田投手、養護学校時代や介護の事を熱くお話される坂本昌穂先生。
今も、坂本先生の心の中には、優しくて強い津田選手が生きておられるようです。
「小さな子を遺していく彼の無念さを考えると、言葉がない。」
と言われ、その心の寂しさは如何ばかりかと想像します。
今も息づいている彼の生き方を、心に沁みとおる言葉で話されました。
「本物の優しさ」について考える機会をいただき、心から感謝申し上げます。合掌。